季節ごとに住職が綴った「時事の事」の記録です
一切衆生悉有仏性(人、皆に美しき花あり)・草木国土悉皆成仏(自然の佇まい・営みは全て仏さまのなせるもの)というこの二節が法華経・仏教の教えを知るキーワードです。
お釈迦様がお生まれになった時、七歩歩いた後に天と地をさして「天上天下 唯我独尊」(一切の生きとし生けるものはみ仏から願われて存在させられている)と言われたのも同じことを意味しています。
このように私達一人一人は大いなる仏さまからいのちと使命をいただいて社会全体の成仏を実現するために遣わされたかけがえのない存在という受け止め方です。この感覚が裏付けとしてないと日本国憲法の基本的人権とか民主主義などと言った理念は絵に書いた餅、絵空事になってしまいます。
このことを前提にして昔からよく言われている「み仏の道を聞いても拝んでも我が行いにせずばかいなし」という詩を味わってみるととても意義深いと思います。せっかく仏法を聞き手を合わせるようなことをしても仏教の基本的な教えや考え方が我々の日常生活、社会生活、人生の中に実行され、実現されていなければ虚しいことです。またそうあればこそ日本仏教が日本仏教たり得て、仏さまの教えが私たち日本人の生活の隅々にまで浸透して行ったのだと思もわれます。
「宝所は近きにあり。この城は 実にあらず。われの化作せるのみ」(化城喩品第七より)
私達は旅をする時、そこの場所や歴史について詳しい案内人が居て、あれこれガイドしてくれると、とても助かります。特に始めて訪れる海外において案内人は必要不可欠です。私たちの日々の生活・人生航路も同じことが言えるのではないでしょうか。
如来はこの世に存在するすべての者たちの案内人です。如来=案内人とは、仏法を真に承知し、生活そのものにしている人とも言えるでしょう。その案内人が『皆さん、こちらに来て下さい! 宝所はこの近くですよ。この城は皆さんを休憩させるために私が仮に神通力で造ったものですよ!』と言っているのです。
険しい道をあえぎ苦しみながら進む人の群れがあり、一人の立派な案内人によって導かれている一行でした。
さて、この道は名だたる難所で、危険と恐怖に満ち満ちています。しかし、それでも一行はもう半分ほど進んでいるのでした。ところが、行けども、行けども難所続きなので、誰が言うともなく「引き返そう」と言い出す始末です。案内人はここまで進んで、今さら引き返すことの愚かさを知っていました。案内人は偉大な神通力を持っていましたので、彼等の目の前に壮麗な城を出現させたのです。そして、『みんな、この城の中でゆっくり休み、疲れを癒しましょう!』と言いました。
一行は城に入って休息と安息にひたります。すると案内人は頃合いを見計らい、この城をかき消してしまったのです。そして、『実はこの城は私が神通力で作り出した幻です。充分に疲れを癒やすこともできました。
さあ、もう一踏ん張りして本当の宝物を手に入れましょう!』と、一行を引き連れ進んでいくのでした。この時の案内人は釈尊、引き連れられている群衆は私たち衆生を表しています。つまり、如来は私たちの人生の案内人と言えるのです。
母なる大地の子である人間が母を殺すなら それ以後人類は生きることはないであろう。
大分前になるのですが英国の歴史学者トインビー博士が来日した時に行った講演の中で「この宇宙の背後には精神的実在というものがある」と極めて宗教的とも言える発言をされていたのをご記憶の方もあると思います。前掲の言葉はその博士が晩年に言われた言葉です。
原子力発電から放出される放射性物質はいのちの存在に不可欠な水、空気、大地をことごとく汚染し、あらゆる生命を瞬時にあるいはジワジワと殺していきます。事故無く稼働するだけでも管理の厄介な、毒性の強い大量の放射性廃棄物を出し続けます。原子力発電を続けることは生命維持装置である地球(母なる大地)を殺す所業と言っていいでしょう。
中東およびアフリカの独裁の終焉にも見られるように、現在の力の「父性文明」から和の「母性文明」へと大きく転換することが迫られています。自然を統御し、支配する力の「父性文明」は人類を破局に向かわせます。人間と地球が共生する和の「母性文明」の創設が今、待たれます。
チャーリー・チャップリンは映画「独裁者」の中で「我々は考えすぎることが余りにも少ない。我々が必要としているのは機械よりも人間の愛であり、利口さよりも優しさと思いやりである。」と今日を見通しているかのような発言をしています。真の指導者(特に長い歴史ある仏教国・日本の指導者)には人類と地球の将来を考える感性と思いやりが不可欠です。いやすべての分野にわたって感性と知性のバランスのとれた人材=グローバル・ブレーンが必要とされています。もしそれが叶わなかったら「母なる大地」=本仏は諸悪の根源たる人類を殺すでしょう。
正に今こそ、それぞれの存在とその違いを認め合い、調和し統合することを基本理念とする法華経の教え(曼荼羅本尊がそのことを象徴)を世界が必要としていると言っても過言ではないでしょう。歴史の流れは平等・調和と統一に向かっていると信じます。
誤解をもととした認識
人間という生命体はその始まりから溜め込んできた、仏教的にはアーラヤ識という潜在意識の中にこれまでの経験・体験・習慣(言語習慣=言葉への執着、こだわりも含む)が詰め込まれています。人はそれまでの経験・言語習慣に従って理解するため誤解を招きやすいのです。
皆さんにお尋ねです。ある日、二人の裁判官がその日行った裁判の法廷のことについて夕食を摂りながら話をしました「今日の被告について、どうあなたは思われましたか?」「今日の被告の父親は数年前に亡くなっています。そしてあの被告は私の実の息子ですから、そう簡単にコメント出来ないことはご理解いただけるでしょう!」さてこの被告と裁判官の関係を一言で答えて下さい!・・・・・・・? なんだか矛盾してる?なんて思う人はこの簡単な質問に窮してしまうと思います。それはおそらく裁判官は男性だという先入観を持っている人は「被告の母親」とう答えに行き着くのに相当時間を要するでしょう。
効率性、経済性が一番との思い込み
効率性、経済性の側面だけをみて、儲けることはいいことだと思い込んで推進してきた原子力エネルギー政策なども人間の勘違いと錯覚が造り上げたとっても危なっかしい事例だと私には思えます。平成二十三年三月十一日に起きた東日本大震災、それに伴って発生した福島第一原子力発電所の事故は現在進行中で、その被害の広がりと時間的長さは計り知れないものがあり、現時点では予測不能です。原爆(核兵器)と原発は同義語です。原爆は核分裂を一挙に行い、広域の全ての命とモノを焼き尽くします。一方原発は人間の高度な科学技術によって核分裂をコントロールし、熱エネルギーを取り出して、蒸気を発生させ、その蒸気でタービンを回して発電するシステムです。
いわば強大な湯沸かし器です。コントロールを失えば一気に核暴走が起き原爆と同じことになります。いずれも処理不能な高濃度で大量の放射性物質を作り出すという点では全く同じです。この放射性物質=放射能は我々生き物の設計図である遺伝子=DNAを傷つけ、奇形やガンを誘発します。高レベルの放射能を浴びれば即座に細胞や血液の再生産が止まり死に至ります。
火宅の中に居る日本人?
震度五以上の地震が起きている処を世界地図にプロットしてみると、外国の原発は地震帯を微妙に避けています。日本列島に設置されている五十四機の原発はすべて真っ黒にプロットされた地震の巣窟の上にあります。日本列島が危険な原子力発電所に取り囲まれている状況です。今言われている東海・東南海・南海と巨大地震が発生し、各地の原発が火を噴いたら日本は全土が居住不能となります。私はこの世界地図を見たとき思わず「三界の火宅において、大苦に遭うといえども、もって憂いとなさざるなり」の釈尊の言葉を思い出し背筋が寒くなりました。ちょっと心配がすぎるでしょうか?
真実に目覚める
英国・ケンブリッジ大学教授で物理学者のルパート・シェルドレイクが「形態形成場」という理論を言っています。これは物質が行動した時、その行動は周囲の『形態形成場』という空間に残像のように残る、つまり一種の記憶装置です。しかもこの『形態形成場』に現れた現象は重力や電磁力の伝達のように他に伝わって行くというもののようです。このことは精神を持つ生物の行動にも当然当てはまることです。加えて「ある地域に新しい真実に目覚めた(認識した)人が輩出すると、その途端に何らコミュニケーション手段を持たない各地の人々が同じ意識に目覚めることがある」とこんな驚くべきことまで言っています。
こうした発想は仏教の中にとても多いのではないでしょうか。よく言われる「一人では何も出来ない、しかしその一人が始めなければ何も始まらない」というのも大変興味深い表現です。
一人の人間が真に悟りを開くということは計り知れない影響力と伝播力があるようです。つまり一人の人間が悟ることによって世界全体が光に包まれるのです。遠くはお釈迦様から身近では鎌倉時代の日蓮聖人の思想と行動を鑑みる時、私はその思いを深くします。
お題目の効能
法華経のようにすぐれた教えとお題目が人々に信じられたなら、その形態形成の力によって理想の国土が実現する可能性はとても大きいと感じます。
人と人とのつながりをよくするのは相手を唯一無二の存在として認識し、何時も笑顔で接することが大切です。そしてすべての人が仏さまから使わされたかけがえのない存在と説いている妙法蓮華経の教えをいつも忘れないようにして、実践行としての唱題、つまり南無妙法蓮華経と唱えることが最上の手段ようです。南無妙法蓮華経と唱うるならば疑心暗鬼や人間不信から陥る悪道からまぬがれることは疑いないようです。
仏教用語で「慈悲」という言葉があります。慈悲の中の慈、慈(いつく)しむという漢字があります。この慈しむという漢字の下の心を取ると「茲」になりますが、これは増やすという意味があります。何を増やすか、楽しいな、幸せだな、うれしいなという気持ち、その気持ちに心が寄り添って、さらにその人の楽しさ、幸せをいっそう増すうというのが慈しむという漢字の意味のようです。さらにその下に悲しみという字がありますが、この悲しみの上の「非」の部分、心を取った部分は減らすという意味があります。しんどいな、つらいな、そういった人に心が寄り添って、その人の苦しみ、悩みを減らすというのがこの悲しみという漢字の意味ようです
人が幸せになるため、より良い人格を得るためにはただただ幸せだ、うれしいなということを増やすだけではだめ、つらいなということを減らすだけでもだめでいいものは増やし、つらいものは減らしいく、だからこそ慈悲はセットで仏教用語になっているのです。
今、私たちが生活をしているこの世は仏さまの目から見れば安穏な世界だし、いる人々はすばらしい方々ばかりが充満していると映るようです。見方を変えてみると私たちが乗っている宇宙船地球号はいのちが成り立つためのすべての条件をしなえています。生命のゆりカゴといわれる所以です。しかもいのちの水が水であり得るという太陽との絶妙な距離を保ちつつ宇宙空間を回遊しています。
そのような奇跡的な条件の下、私たちは不思議にも生かされていと言っていいと思います。まさに神仏の仕業です。この世にいる生きとし生けるものはみな仏様の子で、仏様と同じ心持ちに必ずなることができる種を植え込まれていると言っていいでしょう。
その種が少しでも早く開くように仏様は常に私たちを慈悲の心で見守っていると説かれているのが私たち日頃読む「如来寿量品第十六(自我偈)」です
仏様の種は必ずあって、タイミングがあえば必ず開くことをわたしたちはいろいろな局面で経験します。だから会う人、会う人、いろいろな人がいるけれど必ず仏様になる、この方々お一人お一人が尊いんだと思って敬いの心で合掌するのがとても重要です。
さらにそこからもう一歩進んで会う人、会う人、全ての人が必ず仏様になるんだというこの法華経の教えを理屈抜きで信じ、まず自らが「いのちに合掌」を実践して下さい。もう少し具体的にいうと人と会ったときにはその人の仏の性を信じて胸の前に手を合わせて「こんにちは!」「さようなら!」「ありがとう!」「お元気で!」「またお会いしましょう!」とご挨拶してみて下さい。
その行いを一人一人が進めることで敬いの心で安穏な社会づくり、人づくりになるというのが日蓮宗の「立正安国・お題目結縁運動」とそのスローガンとしての「いのちに合掌」なんです。
こんな社会・世界情勢だからこそ「いのちに合掌」がことさらに望まれます。千里の道も一歩から、先ずは仏法・法華経・お題目に縁の深い私たちからはじめませんか!
誤り、錯覚した認識
私たちは、バラバラに孤立した「私」がまずあって、それから宇宙が「私」とは別に存在すると思っています。しかも宇宙は「私」独りだけのために存在しているかのようです。このように自己と世界を分離して把握する認識のあり方は時代や地域を問わず、人間であればかならずと言ってよいほど成長するにつれて身についてしまうものです。私たちはあらゆるものをバラバラにして物質に還元する近代科学の要素還元主義の影響で自己と世界を分離して把握し、認識する傾向はより強固になっています。それはあたりまえに身についてくるものなので、気がつくことはほとんどありませんが、私たちの基本的なものの見方、世界観、人問観、価値観の根底にすえられてしまっています。まるで最初から備えついていたかのようです。
私たちは人生の予期しない困難な状況におちいった時に自分自身の切実な問いに出会います。「私」はどこから来たのか、「私」は何者か、「わたし」はどこへ行くのか、「私」はどのように生きて死ねばよいのか、「私」はどのようにすれば幸せになれるのか、そもそも「私」の人生に意味はあるのか、などなど。このような問いにしても、ごく自然であたりまえに発せられる問いのように思われがちです。しかし実は問いが発せられる前提には、先に述べたような、自分を含めて世界はバラバラであるという誤った認識があります。問いの前提が崩れれば問題は解決です。
曼荼羅本尊とは?
科学の粋を集めて宇宙に行った飛行士の「この宇宙は一つの意思によって貫かれている」とのコメントに象徴されるように現代科学の知見は自己と世界の把握が事実の誤認にもとづくものであることを教えてくれます。事実としては、「一つ」につながりあった宇宙があって、それからさまざまに形を変えながら宇宙があること
その宇宙と一つながりになっている私たちの存在があります。宇宙とは別に私たちが存在するのではありません。私たちは個人であると同時に宇宙そのものでもあるのです。まさに日蓮聖人が図示し、礼拝の対象にするするよう書き置かれた大曼荼羅ご本尊の世界そのものと言えます。大曼荼羅ご本尊もまた、一見矛盾していると思われる存在関係が矛盾なく調和して成立しています。
私たちは宇宙の子・星の子
私たちは「宇宙の子」であり「星の子」であると教えてくれたのは、宗教家や詩人でもなく、じつはまぎれもない科学者です。
物理学者・アインシュタイン氏の「この世界は単なる物質の機械仕掛けではなく、一つの思惟(意志)のようなものによって貫かれている」とか、同じく物理学者・湯川秀樹氏の辞世の句「もの皆の奥に一つの法ありと日にけに深く思いけるかな」と言った言葉はそのことをみごとに証明してくれています。
科学的で合理的な思考を教育されているわたしたちにとって、認めざるをえないほどの説得力をもっているのではないでしょうか?
私たちはこの宇宙法界を象徴した曼荼羅ご本尊(宇宙)の中の一員なのです。おそらく法華経・題目信仰を受け容れることの出来る日本人の感性が、だいぶ痛んできてしまった地球を一つの生命体であると認識して、地球環境の危機的状況を救っていく世界の先達になるのではないかと期待しています!
令和四年の干支は壬寅(みずのえとら)
ご存じの方も多いと思いますが、干支は二つの組み合わせから作られており、「十干」と呼ばれる十の生命消長の循環過程を分説した集合と「十二支」という動物の組み合わせで出来ています。十干も十二支も毎年変わっていきます。従って干支は六十通りあり、自分の干支になるのは六十年に一度です。これを還暦というのはご承知の通りです。令和四年の干支は「壬寅」となります。「壬」は陽気を下に宿す、つまり生命の誕生を宿す意味を表します。かたや「寅」も草花が伸びようとする状態を表しています。よって「壬寅」は生命が誕生し、伸びていく年になりやすいということです。コロナ禍でいろいろ苦難が多く、暮らしづらかった状況から学んで、新たなる精神で人の生きる地平を切り拓いていく年ということになりそうです。
コロナ禍に学ぶ
今回の新型コロナウィルス問題は、私たちに人間としてどう生きるかを問いかけるものになりました。地球の生態系は生命連鎖と物質循環で成り立っていますが、特に微生物は、消化吸収だけでなく、例えば男性由来の遺伝子をもつ胎児を母親系の遺伝子が攻撃しないよう防護する微生物もあります。つまり、微生物が生命の中で安定的に機能するか、破壊的に機能するかの問題です。近代人は科学で自然体系を征服コントロールできると思い上がってしまったところがあります。現代こそ自然との共生を考え、自己・人間の生命の原点に対して素直になるべき時のようです。
宗祖・日蓮聖人は『立正安国論』の中で、世の中に正しい教えが行なわれないと様々な不幸な現象が起こると述べられています。。現今の疫病の蔓延に伴う社会の混乱はその根底に増長する人間社会の精神的・思想的混乱(拝金主義・物質偏重)があると見るべきでしょう。ウイルスに善悪はありません。人間の対処法の良し悪しによって、善にもなり悪にもなるのです。人間のありようが今、問われていると思います。
日本である秋、開催された国際会議で討議がちょっと一段落し、皆がホッとした時、鈴虫の鳴き声が窓から聞こえて来ました。そこにいた日本人の一人が「もう秋なんですね~!」と言うと日本人の参加者は少し切ない気持ちと共に大方がうなづき合いました。
しかしこの「鈴虫の声に秋を感じる」というのは日本人だけのようです。そこに居合わせた何人かの欧米人はたいしたリアクションもなく、逆に突然日本人は何を言い出したのか?という表情でした。やっぱり「虫などの自然が出して来る音色によって季節を感じる」という日本人の感性自体が彼らには不思議に映るみたいです。欧米で育った人には「虫によって季節を感じる」という感覚がそれほどないようです。鈴虫によって秋を感じるのは日本人特有の感性のようです。
実はこの特質は日本人の脳の働きに根ざしています。日本人の脳の特殊性は自然が造り出す音を本来情緒脳である右脳で受けるのを言語脳である左脳で受け、言語として感知するという驚きの事実があります。日本人にとっては風も波も虫も鳥も音をたてているのではなく『話しかけている!』存在なのです。
日蓮聖人の言われた「吹く風、揺るぐ木草、流れる水の音までも妙法の五字を唱えずということなし」もこうした日本人の感性とつながっているようです。
言霊(言葉には魂=神仏が宿っている)信仰は思考が作り出した信仰ではなく、まさに日本人のDNA(血)が作り出した信仰だと言っていいのではないでしょうか?だから神さまを観よう、仏さまを観ようとする場合、日本人にとっては自然が奏でる音色も含めて言霊感覚を頼りにする(題目を唱える等)のが一番確実、一番自然な方法なのだと思われます。
空の思想を説いている金剛般若経の中に「応無所住而生其心」という有名な言葉があります。
「応に住する所なくして其の心を生ぜよ」=拠り所とか、頼るものが一切ないところに立ち、そこからあなたの心を生じなさいと言った意味でしょう。
実はこの経文が時代を経ると病気直しの呪文・まじないとして流行るようになりました。これが庶民の間に広まって、こんな逸話があります。
『あるおばあさんが病気を治す有難い呪文として「応無所住而生其心」を教えてもらったのです。ところが無学な老人ですから彼女の耳には「大麦、小麦二升五ン合」と聞こえたのです。彼女は耳で覚えた、この有難い「まじない」を唱えては、多くの人の病気を直してやっていたのです。ところがある日、学問のある人がおばあさんの病気直しを見て、彼女の唱えるまじないを耳にします。そこで彼はおばあさん、 あなたが唱えている呪文はちょっと違っているよ。 正しい言葉はこうなだよと 「応無所住 而生其心」の正しい読み方を教えてやったのです。すると、どうでしょう、おばあさんはその後、まじないに心を集中出来なくなり、病気直しが出来なくなってしまった』という 笑うに笑えない話なんです。
呪文としては「応無所住 而生其心」よりも「大麦、小麦、二升五ン合」のほうが上だったということなんですかね?住する所 なくして生じる心・・・などという、わけの解らない言葉よりも、信じたものを一生懸命与えようとした、お婆さんの心のほうが、上だったということでしょう。この逸話が示しているように、呪文で一番大切なものは、その力を信じるということなのです。言葉の外形ではないということでしょう。
たとえば、チチンプイプイでも、本当に愛がこもっていれば、幼児には、それが素直に伝わっていくものです。「チチンプイプイにはなんの哲学もない」なんて学者さんが非難したところで、そんな非難は馬鹿らしいだけです。
私達一人一人は本仏お釈迦さま(妙法)からそれぞれに使命・役割を与えられて今生に遣わされ、それを全うした時、イキイキと充実した人生になります。これを仏教では成仏と言います。だからこそ本仏お釈迦さまから頂戴したそれぞれのいのちは誰にも取って代わることの出来ない、かけがえがなく、尊いもの。そのいのちを何よりも尊重するという趣旨のスローガンが「いのちに合掌」です。
法華経・題目信仰は今生で仏さまからの使命を果たし、役割を全うして仏さまの国土を建設するべく精進することで救われます。現実改革・改善のエネルギーが限りなく湧いてくる信仰です。したがって現在でもこのいのちの教え、法華経に反する社会的な行為や事態に対してはきちっと主張し、正していく事が求められていると思うのです。
各家庭においてもそうした法華経の生命観・人生観をご家族、子や孫にきっちりと伝えていく使命・責務が法華経に縁を結んだ方には求められています。そうすれば子孫が皆さん亡き後もイキイキと逞しくその人生を生き切ってくれるのではないでしょうか?
目に見える物質的な財産より、何があっても力強くこの人生を生き抜いていく精神・心の財産こそ皆さんの孫・子には相続してあげて欲しいと思います。コロナ禍で少し疑心暗鬼なっているこんな時代だからこそ、そのことは一層必要なことだと考えます。
「この場所は来た時よりも美しく!」
ある観光地の立て札の言葉です。私は大変感心しました。「持ってきたゴミは必ず持ち帰れ!」なんていう無粋な言い方でないのがいいです。でも更に深い意味があります。人類は少しずつですが精神的に進化しています。物質至上主義、経済効率第一主義が余りにも蔓延して、原発事故、政治家の収賄事件等いろいろ問題のある昨今です。
信仰を基として縁ある人々の精神・心の進化に少しでもお役に立つことを行っていく使命が私たちに求められています。法華経は法華経を承知する人に必ず冒頭に掲げた、前向きでポジティブな、現実改革・改良の生き方=つまり仏国土建設を要請してくるのです。それはまた皆さんが今生を「生きる勇気・力・希望」を得て、たくましくそれぞれの人生を生き切っていく源になると思うのです。
お釈迦さまは悟りをひらかれたとき、「一切の人々を私と同じような仏の悟りに導きたい」という願いを立てられました。そして、「だれもが仏になれるのだ」という最高の教え(法華経)を説かれたのです。ともあれ成仏が間違いなく保証されているのが私たちです。いや大いなる仏さまのご意志に従ってこの世にミッションをもって使わされた存在と受けとめる方がより前向きだと思います。そして、それぞれに違う姿で、おのおのが置かれた環境のなかで生かされているのだと思います。
私たちは、ともすれば、人間として生きているのが当たり前、そして自分一人だけの力で生きているのだとおごった気持ちを抱きがちです。
生命工学の発達によって生命の大本である受精卵にはすでにそれぞれの生命体になっていくための約六十兆の情報がインプットされていることがわかってきました。これはたしかに生命工学の成果です。しかし、それではいったいこの精巧な生命の設計図を誰がセットアップしたのか?ということになると、われわれそれぞれの人間でも、親でもないことは確かです。生命工学の研究者は「私たちは科学者なので大自然の恵みとか働き、更にはサムシンググレート(偉大なる何ものか)とか言うけれど、宗教者ならばおそらく神仏のお計らいと言うのではないか?」とまで言及しています。生きているということはとても神秘的なこと、ある意味では超能力だと言ってもいいでしょう。
不思議にも人間として存在させられ、実に神秘的な生命活動が営まれている。こんな不思議なことはない。こんな神秘と不思議以上に、あなたはいったい何を望むのですか?このようなことを感じるセンスを宗教心・信仰心を持つというのだと思うのです。
自分がいまこうして生きていられるのは何なのか?ということを問う前に、何に支えられて生きているのか?なぜ生命が保たれているのか?という、いわば自分のいのちの足下を見つめてみる必要があると思われます。
「我以外、みな我が師」と言う言葉があります。拘りを離れ、素直になれば、みなさんの回りに居る人はみな仏さまの分身、起きてくる出来事はみな仏さまからのメッセージと受け止められるでしょう。
法華経は数ある経典類の一つではなく、仏教の根本的な世界観・生命観を表した、もっといえばご本仏のみ心の内とそのお働きそのものを敢えて言葉をもって表そうと試みた稀有な、オンリーワンの経典と言えるのです。
現実の人間社会では渦巻く人々の欲望や思い込みで処々に厳しい状況が山積みしているように感じます。
法華経の譬喩品第三には古くて大きな、軒も傾いている長者の家が突然火事になり、屋敷の内には長者の幼い子供達がそれぞれのおもちゃを追って、屋敷が燃えさかっているのも気づかず、無心に遊び続けて、家からいっこうに出ようとしません。
一つしかない戸口から逃れでた長者は、子供達を救い出すためにその子供達が前から欲しがっていたすごいおもちゃが外にあるぞと叫びます。その声を聞くと子供達はわれ先に外へ出て来たので、誰一人として焼け死ぬことはなく、長者は大いに安堵してすべての子供達に立派な白い牛が引く牛車を与えました。ここで言う長者はむろんブッダであり、救い出された子供達が衆生、つまりこの世という火宅にあって夢中になって遊び呆けて、己の欲望の満足にやっきになっている私達そのものです。この世で生きる人々の様子が説き表されています。
今から二千年の昔に述べられた〈三界は火宅〉であるというこの譬えが生きることの困難さに真面目に向き合ってきた人々の胸に深いリアリティーあるモノとして受け止められ続けてきたことは、千年経っても二千年経っても大きく変化することのない、欲望多き人間の宿命的な性質を示していると思われます。
個としての私は生まれ出るや無明の闇(真理をわきまえない世界)に墜ち、やがてそのことに気づき、それを乗り超えることに生涯取り組まなければならない命題が与えられています。
いつ終息するともしれない今日のコロナ禍も〈いのち〉の揺りカゴと言っていい自然を収奪の対象としてしか見ないで欲を限りなく広げてきた私たち人間への大いなる警鐘と受け取るべきなのかもしれません。
実はこの世を火宅にしているのは他ならぬ私たちなのです。
いよいよ夏本番も間近です。寒い時は一義的には衣服を多くまとえばそれで何とかしのげますが、暑さは裸になる以外なく、あとは文明の利器・クーラーに頼るしかないのです。しかし私達日本人の主食になっている稲作にとって、夏の暑さは稲に実が入るためには必要不可欠な条件です。それこそ冷害にでもなったら、かっていろいろな国々から米を買い漁った騒動の再来です。
一見私達にとって不都合と思われることが本当は大切なことであったり、あの時のあの辛い経験がなかったら、今の自分はないだろう等ということは人生において沢山あると思います。
「等正覚(とうしょうがく)を成(じょう)じて広く衆生を度(ど)すること、皆、提婆達多(だいばだった)が
善(ぜん)知識(ちしき)に因るが故なり」(妙法蓮華経提婆達多品第十二)
お釈迦さまご自身が悟りを得て、ひろく衆生がイキイキ逞しく生き切っていく仏法という救いの道を示すことが出来ようになったのも、すべて提婆達多という善い友人のおかげなのだと言われているのです。善知識=最高の善き友とは、「人生をどう生きなければならないかという大問題に眼を開かせてくれる友」です。それは親愛な友人の相をとらず、かえって憎々しい反抗者や競争相手などの形をとって現れることもあります。その時、嫌悪感や忌避する気持ちを転じて自分を磨き、高めるために仏さまが下さった大事なご縁、試練と受けとめられたら、相手はかけがえのない善き友人となります。お釈迦さまにとっては提婆達多が正にその人であったのです。
提婆達多という人は、お釈迦さまのいとこであり、頭脳も優秀で才能もありながら、我欲が強く、名声を得たいという野心家でした。そのため、お釈迦さまに代わって教団運営をしようといろいろな策略を巡らし、、お釈迦を亡き者にしようと画策した人です。それでもお釈迦さまは提婆達多を善知識(善き友人)と位置づけておられるのです。
お釈迦さまにとっては提婆達多という反面教師がいたからこそ、 自分のなかにある傲慢さや我欲の愚かしさに気づき、悟りを得ることができた。それに気がつかなければお釈迦さま自身がその過ちを犯したかも知れないということを、提婆達多に教えられたわけです。
私たちは生きていくなかでは、自分への悪意や敵意しか感じられないような人と出会うこともあります。しかし、お釈迦さまのように相手を善知識と拝むことができたなら、そうした人たちが実は大切なことを教えてくれるお師匠さまになります。お師匠さまと拝みきることができてこそ、のちに「あの人がいたからこそ、今の私があるのだ」と思って相手に感謝し、自分の成長を喜ぶことができるでしょう。
吉川英治氏の言葉を以て今号の締めくくりとします「我、以外みなわが師」。さてそれ自身は悪でも善でもない新型コロナウイルスは師として、一体私達に何を教えてくれようというのでしょうか?
私達の生きるより所である法華経の前半を代表する章が方便品、そこに説かれているところを理解するキーワードが「諸法実相」という言葉です。諸の法(あらゆる存在や現象)はすべてが実相(ありのまま、真実の姿)である。しかもこのことをしっかり観ることが出来るのは「唯仏与仏」=唯、仏と仏のみ、つまり仏さまと同じ境地を開き、仏さまと同じ眼を持った人のみなのです。諸法実相はなかなかややっこしいです!これを何とか解るようにしたい思います。
「水波のたとえ」というのが解りやすいかもしれません。海の波は大きいモノや小さいモノ、縦波・横波、サザ波、三角波、怒涛など様々ありますが、元々は同じ海水がそれぞれの姿で現れています。つまりいずれも海水と言う一水の成せるワザだということです。この世のあらゆる存在・現象もまた同じです。それは宇宙の大きな生命のリズムであって、表れた現象は様々あるけど、みな同じ宇宙の鼓動である事に違いは無いのです。この宇宙には生命にとって海水のような媒体(妙法)が満ちており、それが変化して様々な物質・現象として表われているだけなのです。人々やこの世に存在するあらゆるモノ・現象はみな大本が同じであると言うことです。私達は自分と他人を区別していますが、本来は同じモノから遣わされた生命体であり、運命共同体です。
日蓮聖人はそうした法華経の「諸法実相」の教えを「吹く風、揺るぐ木草、流れる水の音までも妙法の五字を唱えずということなし」と表現されました。
「諸法は実相」を実感したと思われる例を紹介してみます。
それはモーツァルトです。一点の翳りもない、どこまでも透き通った青空のような美しさ、これがモーツァルトの音楽の特徴です。特に彼の最晩年、死を間近にした時期に作曲された作品には一種独特の美しさにあふれています。彼岸から吹いてくる風、その風が音楽になってしまったとでも表現するしかない美しさです。これは「末期の眼」を持ってしまった人間が自分の眼に映る世界を表現したように思われます。人間は心の底から、この世に「サヨナラ」を告げる気持ちになりきった時、すべてのものが限りなく美しく見えてくるようです。モーツァルトは父親に宛てた手紙でこんなことを書いています。「数年このかた、死は人間の最上の真実な友だという考えにぼくはすっかり慣れています。その結果、死はぼくにとって、もはや恐ろしくないだけでなく、大いに心を慰めてもくれます。そしてぼくは死こそ真の至福への鍵であることを知る機会を与えてくれた神に感謝しています。…中略…ぼくはまだ若いけれど、おそらく明日はもうこの世にはいまいと思わずに床についたことはありません。」死を覚悟し、受け容れた人間には、すでにその人を迷わす欲が無く、まさに「諸法は実相」、物事をありのままに見て取ることが出来るようです。
法華経第十五番目の従地涌出品で世尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)に告げられました。「この諸の大勢のおびただしい無量・無数阿僧祇(おびただしい数)を超える地から涌き出した者たちは、お前たちがまだ見たことのない者たちだが、彼等は私がこの娑婆世界でさとりを得已ってから、いろいろな菩薩を教化し、指導し、彼等の心を調えて、仏の道を求める心をおこさせたのだ。この多くの地涌の菩薩達は、この娑婆世界の下にある虚空の中に住んでいた。そして、いろいろな教典を読誦し、それらに通じていて、その教えを通して考え、ものごとをことわけして正しく記憶していた。」
大地が割れて、そこから大勢の菩薩達が現れ出たということを、かって誰も見たことも、聞いたこともありません。これはどういう訳なのか、一体、彼等は何者なのかと、その場にいた者達は驚きであり、疑問でもありました。彼等は娑婆世界の下の虚空に居て、仏様が娑婆世界でさとりを得た後、これら諸の菩薩達を教化し、教導し、道を求める心を起こさせたと言うのです。
この表現は、たんに数が膨大であることを表現しているのではなく、もっと別の意味、具体的なことを表すためと思えます。
私たちは、通常、人間の視線でものを見、理解し、そして判断しています。しかし、一端、人間の視点から離れて、動物や昆虫、細菌類、それぞれの視点に立ってまわりを見回すと、人間の視点では知ることができなかった新しい発見が多々あります。
地面に視線を下ろすと、バッタが巨大な顔を覗かせて、張り出した顎でバリバリ葉を食べています。きれいに一列に並ぶ蟻は、後ろの蟻に道を伝達するために、臭気を印しながら歩いています。そこには人間の観点とは全く異なった世界が広がっています。或いは、土の中には無数の、数え切れないほどの「いのち」が息づいています。人の目では定かではありませんが、一握りの土の中にも、何億・何千億という細菌類が生きているのです。
木の葉は、落ち葉となって地面に落ち、地面の細菌類と出会って腐り、腐葉土となって、「肥えた土」になります。人間は、この肥沃な土を利用して、作物を作り、大いに収穫できることを喜びます。しかし、この肥えた土も、人の視点から離れると、木や葉を腐らせる様々な腐敗菌の活躍する場でもありますし、虫たちにとっては何よりの住み家でもあります。私たちの常識では考えられない生き方をしている生物もいます。地球上の全ての動物・植物、或いは細菌類までもが、互いに関連し合い、支え合い、絡み合って存在しています。
それを法華経・従地涌出品では、「地涌の菩薩とその眷属たち」と表現し、様々なグループが数限りなく存在して私たちと関係していることを表しているのです。
まさに私たちは一人孤独に存在しているのでは無く、数限りないつながりの中で存在できているという「ご縁」といのちの世界の不思議を示し、仏教=法華経の教えの核心を表現しているのがこの従地涌出品だと言っていいでしょう。
お釈迦さまの悟りに想いをはせるとき、ふと目についた路傍の草花や石ころ、そして私たち自身の存在まで、すべて「そこにある」ものごとの真実のすがたを表していて、何の偏見もなくありのままに見ることが大切になります。これはたやすいことではありません。幽霊の正体見たり、枯れ尾花なんてこともあります。私達の無知と誤解が偏見を生み、次第に憎しみに変わり、そのまま肥大していった最悪の結果が戦争です。
しかし法華経方便品の代表的な言葉である諸法実相(総てのモノが仏の意思を表している)という語に表されたものの見方・考え方は、まさに仏教の精華というべき法華経の根本精神なのです。人は必ず変われる、つまり成仏出来ると言うことです。
釈尊は諸法実相の教えを説かれましたが、それがあまりにも高度な内容であったため、舎利弗はじめ仏弟子達は仏さまのみ意をはかりかねました。彼らは仏に従い修行を積んで阿羅漢の悟りを得ていたのですが、真の仏智はそんな彼らにも遠く及ばなかったのです。すべての衆生を仏の悟りの世界に導こうとする大慈悲心の現れ、そうした仏の知見への道を大衆に明かしたのが「諸法実相」の教えです。釈尊がこの世に現われたそもそもの目的が「衆生をして仏の知見(認識・認知)を開かしめ、清浄なることを得せしめ、衆生に仏の知見を示し、衆生をして仏の知見を悟らしめ、衆生をして仏の知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」であったことを私達は片時も忘れてはならないと思います。
「諸法実相」を説いた法華経第二章が「方便品(全てが悟りに至る手立て)」と名付けられ、次の「譬喩品」以下で説かれる有名な「三車火宅の譬え(煩悩の火宅から早く出よ)や「長者窮子の譬え(浮浪者が実は長者=仏の子)」等は「諸法実相」の思想を巧みな譬え話によって、わかりやすく説いたものに他ならないのです。
近の事件・事故などが象徴しているように、世の中には不安や悩みを抱えて日々を送っている人が多く居ます。私たちも時にそういう状況に陥ることがよくあります。
一人一人が仏さま(宇宙の大いなる意志)からそれぞれに使命をいただいて、仏さまと同じ性質を持ってこの世に存在させられていると承知するのが仏教の基本的人間観・生命観です。だから人生途上における諸問題の答えは己自身の内なる本当の声によ~く耳を傾けてみることで全て得ることが出来ると云っているのがここに掲げた法句経の言葉と思えます。
お金を出すことで病気や死が回避されるということはありません。そう思う人がいたら、仏教の何たるかを全く解っていない人ですし、若し解っているのなら、法句経のこの言葉をじっくり味わっていただければと思います。
もともと宗教・仏教は病気や死といった人が避けて通れない人生上の大きな課題を逞しく乗り越えていく広大無辺な理念(大いなる永遠のいのち)を示しています。その大いなる永遠のいのちが、この私の有限な肉体を貫いていること(仏性・使命)をしっかり確認出来た時に本当の安心が得られると思われます。だからこそ『己こそ己のよるべ』なのです。
妙厳寺・大多喜南無道場にご縁の深いみなさんにはこのことをくれぐれも承知しておいて欲しいと思います。
尚、この巻頭のことばの後に「よく整えられし己こそ、まこと得がたきよるべとならん」という言葉をお釈迦さまが付け加えられていることを確認しておきたいです。
さて、あなたは何をもって己を整えるか?「我慢偏執の心なく只(ただ)南無妙法蓮華経と唱うべし!」が私たちの宗祖・日蓮聖人の結論でした。
私達はともすると自分の意志と工夫でこの命を保ち、日々を生きているかのように思い込みがちです。しかし実際は、目に見えるもの見えないもの、いろいろな縁に支えられてこの命を維持しています。例えば地・水・火・風は命が誕生し、保っていくために欠くことの出来ない重要な要素ですが、その中の「地」を例にとってみますと、小動物やバクテリアなどが、きちっとその役割を果たしてくれているお陰で、「母なる大地」として、新しい生命を育む力を保つことができます。そして私達人間も含めて地上の生命は、この土の化身と言っていいほど恩恵を受けているのですから、そうするとこの私の命は目に見えない地中の小動物やバクテリアが支えてくれていることにもなります。
私たちの命はいろいろなものによって支えられていることに気がつきます。一日三回食事をします。調理してくれる人や材料になる作物を丹精こめて作ってくれた農家の方たちがいて、またその食材を運び、消費者に配ってくれる小売業の人など、多くの方がいたからこそ私たちは食事をすることが出来るのです。加えてその食材は大地が育んでくれたものであることをそれぞれに実感してもらえればと思います。
私たち人間は決してひとりで生きているのではありません。天地自然の目に見えぬ“おかげさま”のたまものであることを承知することがとても大事だと思います。
進行性筋ジストロフィーという難病で、十七歳で亡くなった若者の詩「一本のロウソク」を紹介します。
「たった一本のロウソクでも/人間以上のすばらしい生き方をしている/火をともしたロウソクは自分の体をも/とかしながら人につくそうとし/とろとろと汗をながしながら働く/最後には体がなくなってしまうのに/短いその命なのに悲しまず/たえしのび/ああ ああ ロウソクよ ロウソクよ/僕はお前のようになりたい」
不自由な身体で余命わずかという境遇にありながら、恨むことも、愚痴ることもなく、「自分もロウソクのように人につくしたい」という彼の叫びは、強く心に響きます。彼もまた生きる意味、おかげの心を私たちに教えてくれる尊い菩薩の一人と思えます。
目に見え見えないけれど確かにある実存的真実(真理・法・妙法)を人格化して「法身」呼びます。このことは万有引力に例えてみるとよく解るのではないでしょうか?引力は十七世紀にイギリスの物理学者ニュートンが発見する以前から実在しています。存在しながら誰にもわからなかったのです。発見者のニュートンは人間ですから有限な存在ですが、引力は永遠に在り続けている科学的真理です。
但し、お釈迦さまとニュートンの異なりは科学的真理の発見ではなく、宇宙と人生に通ずる真理(妙法)をさとった点にあります。発見もさとりも、それまでは誰にも知られずに存在していた事実を、はじめて見出す意味においては同じです。但し、発見は主として自分より外側に見出すことですが、「さとり」は自分の内側に会得して、人生といのちの営みの真実をうなずきとる、つまり自分の中に内在する宇宙的永遠性に気づくところに違いがあります。
いずれにしてもこの万有引力のことは法華経寿量品(自我偈)の「永遠のいのち」を理解するのに格好の例話と思われます。引力というのはニュートンが発見したわけですが、ニュートンが発見してもしなくても万有引力は存在していたわけです。そして、ニュートンが死んだのちも存在しています。つまり永遠に実在し続けている=これを専門的には「久遠に実成している、つづめて久遠実成」と言っているわけです。
有名な自我偈・冒頭のフレーズが示す久遠実成の本師釈迦牟尼仏のイメージはこの万有引力のようなものであると言えます。私たちはお釈迦さまというとインドに生まれインドでなくなられたお釈迦さまを考えがちです。確かに法華経以前の思想ではそうなのですが、この法華経で説かれるお釈迦さまはインドに生まれインドでなくなられたお釈迦さまにとどまらない、永遠のいのちを持った「久遠に実成」したお釈迦さまなのです。
法華経の教えは持ち難く、信じがたい。これまでの経験に基づき、現状を楽しみ、喜び、執着し、その偏狭な世界でかりそめの安住を求める人たちにとってお釈迦さまのことばが届くのは容易ではないと言われています。仮に届いたとしても、人はこれまでの経験・言語習慣に従って理解してしまうので誤解を招きかねないのです。
その辺のところを私たちがよく読む法華経見宝塔品の偈で「此経ハ持ツコト難シ」と言っています。一切の執着対象を捨て去り、覚りの境地である涅槃を得るためには約二千年にわたって多くの人々に読まれ、親しまれて来た「法華経」に対する一念の信が先ずもって重要になりそうです。その信じ難く、持つこと難いという難問を突破していく大きな手がかりになるのが「以信代慧」です。「信を以もって慧に代える」と訓読みします。これは信の一念をもってあらゆる智慧の修行に代えるということです。そこにこそ仏法の一切の修行とその功徳が具わっていることを明かしてくれているのです。
「虚仮の一念岩をも通す」という言葉もあります。愚かな者でも一念の信を持ってひたむきに行えば大きな仕事が出来るとの意味です。たわいもない水の滴りが岩をも穿っていく、つまり雨だれが落ち続けることで固い岩にも穴を開けていくことが出来ます。一見、無駄に思える事も愚直に行い続ければやがて大きな実を結ぶという教訓です。
法華経の基本理念は「一切衆生 悉有仏性」です。すべての生きとし生けるものは悉く仏性、すなわちそれぞれにかけがえのないいのち(個性、持ち味)を持って生まれて来ているということです。ちょっと詩的に表現すれば「人、みなに美しき花あり」ということになります。皆、それぞれにかけがえのないいのちを仏・神・ご本仏から授かってこの世に何らかの使命・役割(個性・持ち味・特質・長所)を持って生まれてきた、あらしめられた存在です。比較できない、代理のきかない存在、それぞれに特性を持った美しい花なのです。それは私たち一人一人が皆、仏子・仏使であるとの自覚を持つことでもあります。
仏性をもともと内在している私たちは仏教の根本たる法華経を承知できる潜在能力が既に備わっていると言っていいでしょう。その能力を開発する手続きが「一念の信を持って行ずる唱題修行」です。
「信の一念」(お題目)という鍵を持ちさえすれば法華経の教えはそんなに持ち難くないのです。
元NASAの宇宙飛行士・航空宇宙工学コンサルント、リ・ロイ・チャオ氏の言葉を紹介します。「私は約二三〇日もの長い時間を宇宙で過ごすという貴重な体験をしました。地球はとても美しく、特に宇宙からの眺めは本当に素晴らしいものでした。その美しさは特別で、宇宙にいる間、時間があればいつでも地球を見て写真を撮っていたほどです。このように美しく、素晴らしい地球が何らの意志なく偶然に出来たとはとても思えません。宇宙飛行士という仕事は、私に美しい地球を見せてくれただけでなく、環境を守っていくことがどれほど大切かということを考えさせてくれました。私たちは、この美しい地球を守っていかなければなりません」。この宇宙飛行士のコメントから、私達いきとしいけるモノは何時の世にも仏さまと共にあり、そのご本仏は常に私たちを見つめ、慈しみ、気づかせ、ご自身と同じ心境にしたいと慮ってくれていることを感じ取っていただければ幸いです。
私たちが法華経・題目に出会うということ、法華経・題目との縁を結ぶということは、はるかな過去から現在にいたるまで数えきれないほど何度も何度も教化、つまり教えを聞いていたということです。つまり下種=種を埋め込まれていたからだと言うことも出来ます。ご本仏は決して私たちを見放さないのです。ご本仏は何時も私たちのことをご自身と同じ心境にしたいと願ってくれているのです。
お題目・南無妙法蓮華経を唱えることでみな仏さまに愛でられ、仏さまのみ心、み手の中に奇跡的に生きている、そのことが認識出来ると宗祖は言っておられるのです。成仏を妨げる頑迷な自我意識を少しでも取り除き、仏になる心境を開いていただくためには仏教が有史以来提供しているプラクティス・唱題と言った伝統的行法がそういったありのままの事実を「そうだ!」と感じ、受けとめてもらうためにとても有効のようです。人生の岐路で本当に判断に迷い、身の処し方に迷ったら本仏=南無妙法蓮華経と一体となる「お題目」をひたすらに唱えることで内なる本仏に率直に聞いてみることが肝要です。