日常の事柄を踏まえて住職が語ります
元文化庁長官・河合隼雄氏がインディアンの生活調査をし、日々上りくる太陽に向かって合掌する訳を酋長に「あなたたちにとって太陽が神なのか?」と尋ねたところ、酋長は「太陽が神なのではない、太陽が上がってきたときに森が目覚め、動物・獣たちが活動を始め、木々達が活発にその営みをはじめ出す、そうした壮大な大自然のドラマこそが神なのだ!」とキッパリ答えたそうです。こうした大自然の壮大な営みの中で私たち人間も含めたもろもろの生き物たち、いや鉱物・無機質のモノまでが存在できているのです。私たちはお釈迦さまの遣い・分身、仏さまの願い、思いをこの娑婆世界(地上)に実現するために派遣された菩薩であるという法華経・題目の教えは大いに説得力を持ってきます。
私たちは皆いのちの神秘を生きている仲間同志です。菩薩とはそうした仲間意識に目覚めた人のことを言い、かつ他の人々を放っておけない、助けずにはいられなくなった人のことと言えます。
その菩薩の心境を端的に表現した国文学者・歌人である佐々木信綱氏の和歌を紹介します。
「願はくは われ春風に 身をなして 憂ある人の門をとはばや」これぞまさしく、お釈迦さまの遣い・分身、つまり仏さまの願い、思いをこの娑婆世界に実現するために派遣された菩薩の心持ち、心境、有り様かと思われます。にもかかわらず、私たち人間は、欲にかられた生産性・経済性重視の生き方を突っ走り、いのちを支えている大切な地球を脅かしてきました。また日常生活においては周囲の人とつまらぬ衝突をし、果てには戦争という愚かな行為を今もまたくり返しています。すべてのいのちと一つに連なる我がいのちであることを忘れ、自他を区別し、他のいのちを粗末に扱う。それは自らのいのちをも粗末にするということになります。