時事の言
 
  手元にある幸せに気づく
 
 私たちが生きていくためには、水と空気は欠かすことができません。それは誰もが知っています。私たちの生命維持に不可欠にして、最も大切なものです。ところがそれほどまでに重要であるにもかかわらず、日常生活の中で私たちが水や空気があることに感謝することはほとんどありません。実際、蛇口を捻ればいつでも水は出るし、息を吸えばいつでも空気を吸入することができます。いわば「あって当たり前のもの」に過ぎないのです。
 本当に大切なものがすでに手元にあるというのに、それに感謝できない。言い換えれば、すでに手元にある「幸福・幸せ」に気づくことができないということは、実はとても悲しく残念なことなのです。
 当たり前すぎて注意を払わないどころか、そのこと自体を忘れてしまった人たちがいます。それは他ならぬ私たちです。
 山口県立大学鈴木隆泰師の言葉を借りれば「釈尊は無上菩提を得て仏陀と成った後、躊躇する心を乗り越えて衆生を自分と同じ境地に至らせようと説法を開始しました。仏教が〝仏が説いた教えであると同時に仏に成るための教え〟と呼ばれる所以がここにあります。ところが多数派は、成仏は特別な者にしか達成することはできず、通常の仏弟子が至れるのは「阿羅漢」という聖者の位までと考えるようになっていました。誰もが成仏できるという仏教にとっての大前提が、『当たり前のこと』として忘れ去られ、いつしか成仏は到達不可能なものへと位置づけが変えられてしまったのです。仏教徒たちが忘れたのはそれだけではありません。
 『釈尊が永遠の命を持っている存在だ』」ということです。これはもちろん、釈尊が不老不死の仙人であることを意味しません。これまでの様々な研究で明らかにされているように、実は釈尊は初期仏典(原始仏典)の段階からすでに普通の人間とは見なされておらず、真理・教え(法)を身体とする者、法と一体となった者と考えられていました。後代の言い方を借りれば、釈尊は仏教の最初期から一貫して永遠の法身仏であったのです。肉体を持った者としての釈尊はこの世から滅したとしても、私たちは真理(縁起の理法)そのものや、教えそのものである法身としての釈尊にいつでも向かい合い、尊敬・崇拝することが可能なのです。」
 私達いきとしいけるモノと何時の世にも仏さまは共にあり、その仏さまは常に私たちを見つめ、慈しみ、気づかせ、ご自身と同じ心境にしたいと慮ってくれています。だからこそ私たちは命を保つことが出来、反省という精神作用も起きるのです。それを感じ取っていただければ幸いです。
2017/09
 
 大多喜南無道場 妙厳寺 http://myogonji.jp/